2017年02月11日

得体の知れない人々

「得体の知れないとは何だ?」と先輩。
「なんだか正体が分からないのです」
「幽霊か?」
「毎朝来るんですよ」
「なんだと?」
「歯を磨きにくるんです。得体の知れない人たちが」

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。一説には戦後1年間で渋谷区の人口は2倍になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者が渋谷に続々と帰って来たのだ。その他に私たちの様な家族再編組もいる。戦争で夫や妻を失った人たちの再婚である。何とかなるだろうと思って来る人もいた。

先ず、昔から地域に住む人たちが、とりあえずの寝場所として自分の土地に仮小屋を建てた。焼け残った廃材で建てた仮小屋である。住まいと言うには余りにもお粗末なのでバラックと呼んでいた。そして終戦後1年くらいたつと、私が住む金王町(現渋谷二丁目)にも得体の知れない人々がやってきた。

激しい空襲にもかかわらず地中に埋まっている水道管は生き残った。バラックは家を建てるまでの仮住まいだから水道を引かない。近所の人が一つの蛇口を共同で使っていた。蛇口の周りに主婦たちが洗い物を持って集まるので井戸端会議の場にもなった。同じ蛇口を使う人はごく自然に親しくなって行く。焼跡では水道から付き合いが始まるのだ。

ある日、見知らぬ若い男が共用水道に現れた。背が高くて男前、俳優の大町と名乗っていた。後になっての話だが大町さんは映画「七人の侍」に出ていたそうだ。戦う農民の役でちょこっと写っていたようだ。その後、次々と得体の知れない人物が我家の裏に移住してきた。オカマの青山さん、名前の分からない学生と若い女性、満州帰りで50代の満子さん等だ。そして、もっとも印象深い安藤親子、輝造と裕次もやって来た。年が近い裕次とは直ぐに友達になった。裕次の父は無口だが物静かな礼儀正しい人だった。

今までは私たち母子4人だけがよそ者だったが、こうして我がバラックの裏によそ者部落が出来てしまった。10人足らずの人たちだが10坪に満たない土地に小屋を建て、重なるようにして住んで居た。地域の人たちと付き合うことはなかったが、よそ者と言う共通点がある母は別だ。一部の人たちと親しくしていたようだ。

ここで地域の結びつきがいかに強いかを示す一つのエピソードを紹介する。少し長くなるので興味のない方は飛ばしても差支えない。
養父の中波常吉は、ご近所さんから経師屋の常ちゃんと呼ばれていた。戦前から地域に根を張った住人である。金王八幡宮近くの渋谷区金王町にある地元町内会は戦災で御神輿を失った。復興を願って地域の人が協力して御神輿を作ることにした。建具屋と大工が中心だが町内すべての人が持てる技術と力を合わせて新しく作ることにしたのだ。例えばブリキ屋が鳳凰の形を作りペンキ屋が綺麗に塗った。ところが経師屋の常ちゃんの出番がない。それで御神輿に小さな障子を作り、常ちゃんに障子紙を貼らせた。町内会は全員参加で作ることに拘ったのだ。町内皆助け合って暮らして居た。戦災で全てを失った人々は助け合わなければ生きて行けないのだ。こんな状況だからよそ者と地域住民が付き合うことはない。よそ者部落の人たちは住所不定、そもそも町内会に入る資格がない。

得体の知れない人で母とお喋りする人が二人居た。満州から引き揚げて来た満子さんと青山さんである。満子さんは「私はオッパイが無いんだよ」といって服を脱いで見せてくれた。胸に大きな傷があるので凄いなと思った。青山さんは顔が大きく赤ら顔、どう見てもオジサンなのに言葉づかいと仕草が女なのようなので気持ちが悪かった。母の前で泣きながら何かを訴えていたのを見たことがある。一見すると女々しい人だが状況によっては態度をガラリと変える怖い人だった。

裕次は私の一つ下だから直ぐに親しくなった。父は瓦屋だそうだ。親子で寝るだけのスペースしかない小さな小屋に住んで居た。床下は瓦で満杯だった。所帯道具は見当たらなかった。食事は外食だと言っていた。当時としては極めて贅沢なことだ。私はもちろん、ほとんどの子供は街の食堂などには一度も行ったことはない。瓦屋って儲かるのだなと思った。裕次は東京で初めて友達になった子である。

「裕次は私にとって忘れられない人になりました」
「親友にでもなったのか」
「その場限りの遊び友達です」
「忘れられない人なんだろう」
「困っている時に助けてくれた訳でもありません」
「それなのに何で?」
「ある日、お父さんが新聞にデカデカと顔写真入りで出たのです。ビックリしましたね」
「瓦屋さんは仮の姿、……」
「当たり! 実はホニャララなのです。次回に書きますね」

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2017年02月04日

壊された思い出

「豪邸は無い、女中も居ない。嘘ばっかりじゃないか」
5歳の記憶を書いただけなのに先輩は怒っている。相変わらず融通の利かない人だ。
「子供の思い違いですよ。よくあることでしょう」
「分かったら書き直せばいいじゃないか」
「思い違いから事実へと順序よく書きたかったのです。時が流れるようにね」
「ああそうかい」
「まだ怒ってい
るのですか。勘弁してくださいよ。水に流しましょ」

私は夢を見ていたのだ。70年間の長い夢である。私の人生は落ちこぼれの連続だった。学業、仕事、趣味、娯楽の全てから落ちこぼれている。運動神経は鈍いし、歌えば音痴、オマケにハゲだ。何一ついいところがない。少しぐらい夢を見たっていいではないか。

東京から兄が来た。そして私が70年間温め続けて来た古き良き思い出を1時間でぶち壊し三日して帰って行った。否定しがたい事実を次々と突きつけられて知りたくないのに知らされたのだ。何でいまさら? 私にとっては天災のようなものだ。

「今になって話すくらいなら墓場まで持って行けばいいのに」
「お前が聞かなかったからなぁ。知っていると思ったんだよ」
「オフクロの話を黙って聞いていたんだ。知ってるはずないだろう」
「俺だって黙って聞いていたよ。本当はこうだなんて言えるわけがない。ヒステリーを起こすよ。皆恐れていたじゃないか。俺だって同じだ」

私も兄も母から直接聞いたのではない。母が近所の人に話すのを聞いていたのだ。今では考えられないが6畳一間のバラックでは人の話すことは全部聞こえるのだ。私は学校に行っていないので沢山聞いた。兄も少しは聞いていた。違いと言えば私は事実と信じたが、兄は嘘と分かっていながら黙っていたことだ。同じ話を聞いても当時10歳の兄と6歳の私では、受ける影響が格段に違うのだ。

母は近所の主婦を呼んでお喋りするのが好きだった。茶菓でもてなしながら横浜での優雅な暮らしぶりをそれとなく話に織り込んでいた。大きな家や女中さんたちが、何気なく登場する。母はバラック住まいの身だが家を建てるまでの仮住まいだ。よそ様に比べ懐は豊かだった。それに奥様らしい風格もあり優雅な横浜の話も不自然ではない。

ところで東京から来た兄が何気なく話したことは、私にとって青天の霹靂だった。私の面倒をみてくれた女性たちは女中さんでなかったのだ。意外にも父が勤めている海軍の飛行機製造会社の女工さんだと言う。おまけに我が家と思っていたのは会社の女子寮で、母は奥様どころか寮の管理人だったと言うのだ。母は併設されている海軍クラブ(宴会場)の運営をも任されたいたようだ。かなり忙しそうだったが仕事で得るものもあったのだろう。

後で考えると戦争が激しくなり営業できなくなった旅館を会社で借り上げ、女子寮兼宴会場として使っていたのだと思う。戦争で働き盛りの人が減った中で、ここだけは若い女性と海軍軍人という若者で溢れていた。伊吹一家の住居も兼ねていたので私は自分の家と思い込んでいたのだ。実際そのように自由に使っていた。少なくとも私はそう感じていた。

戦後70年もたった今、なぜ女工さんたちが私を身内以上に可愛がってくれたかも分かるような気がする。故郷を離れていたので自分の弟を見るような思いで接してくれたのだと思う。それに自分自身が明日をも知れぬ命だから幼児に対する愛情が人一倍強かったと思うのだ。軍の飛行機製造工場は米軍による空襲では攻撃目標の一つになっていた。

若い女性が望郷と死の恐怖の中で生きていたのである。今にして思えばその気持ちはよく分かる。しかし、もう一つの現実がある。戦争末期は食料不足で空腹の時代だった。その様な状況の中で母は寮の食事と宴会の料理を一手に仕切っていたのだ。

女工さんは女中でもなければ母の部下でもないが、母の頼みは喜んで聞いてくれた。母が食料を自由に扱える立場にあることを知っていたからだ。しかも工場は交代制だから常に非番の女工さんがいるのだ。勤務明けで疲れた身体の彼女たちが私の母代わりになってくれたのだ。兄は言っていた「オフクロは非番の女工さんにお前の世話を頼んで、お礼に食料を上げていたのだ」。空腹の時代では食料は現金よりも価値があった。

戦争は多くの人々の人生を破壊した。母にとって焼け跡のバラック暮らしという悲惨な現実は受け入れがたいものだった。だから過去を自分流に美化し、夢を描きながら語っていたのだと思う。母にとっては女子寮も宴会場も庭から池まで全てを含めて自分の城だった。そして、言うことを聞いてくれる女工さんは女中だったのだ。これらは母の心の中で徐々に事実へと変わって行った。嘘をついている自覚はなかったと思う

もちろん自分は奥様で私たち子供は坊ちゃんだ。そのような前提で近所の奥さんたちとお喋りをしていたのだ。そんな話を聞き続けた6歳の私は現実と思い込んでしまった。不思議と言えば不思議、滑稽と言えば滑稽だ。70年間も幼少の頃はお金持ちと思っていた。古き良き思い出と言うよりも、それが事実と思い込んでいたのである。

以上が去年の夏、兄に聞いた話を参考にして自分なりに考えをまとめて書いてみたことである。いずれにしろ、兄の訪問で過去の記憶が大きく修正された。兄に聞けば実父逃亡の謎も分かるような気がするが、これ以上は聞く気がしなくなった。

「これでやっと腑に落ちたよ。アンタは貧乏臭いんだ。精一杯よく言っても苦労人だな」
どうやら先輩も機嫌を直したようだ。ようやく何時もの調子にに戻った。

「母は慶応とフェリスに拘っていました」
「なんだと? まだ拘るものがあるのか」
「試験に落ちて裁縫女学校に行ったのですが、気持ちはフェリスですね」
「横浜と言えばフェリス女学院だな。伝統と革新、キリスト教精神だ。嘘つきは入れないぞ」
「嘘つきになったのは夫に逃げられてからです」
「慶応ってなんだ」
「母が子供たち三人を入れると言っていた学校です。よく応援歌を歌わされました」
 ♪若き血に燃ゆる者 光輝みてる我等 希望の明星 仰ぎて茲に……♪

「……ショウリ ニスス ムワガ チカラと切って歌わされるのですが、ニススとムワガの意味が分からなくて苦労しました。母の真似をしながら3人で声をそろえて歌うのです」
「勝利に進む我が力じゃないか」
「今なら分かりますよ。まだ字の読めない子供ですからね」

「それで、アンタも入ったのか」
「天現寺の慶応幼稚舎に入っていましたよ」
「あの名門小学校へか? 嘘つくんじゃないよ」
「新聞配達で毎朝入りました。昔は配達で校内まで入るのです」



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2017年01月28日

吹き込まれた記憶

「去年の夏ですが4歳年上の兄が20年ぶりに札幌に来たんですよ」
「随分ご無沙汰だね。いったい何しに?」と先輩。
「80歳になったとか言ってました」
「東京に住んでいるんだろう。足腰の立つ内に会って置こうということかね」
「三日も居たものですから昔話もしましたよ」
「古き良き昔を語り合ったのか」
「そう思ったのですが何故か噛み合わないのです」

終戦当時9歳だった兄は豊かだった横浜時代の記憶がある。一方5歳だった私の記憶は曖昧だ。後になって聞かされた母の話を自分の記憶と思い込んだ節がある。これが話が噛み合わない原因と思う。しかし何故だろうと言う疑問は残る。私だって無条件で母の話を受け入れた訳ではない。内容が私の体験や見たことと一致していたからだ。それで70年の長きにわたり事実と認識していたのである。

1945年5月の米軍による大空襲で渋谷区内の77%が焼き尽くされた。住民は焼跡となった自分の土地にバラックと呼ばれる仮小屋を建てて雨風を凌いでいた。養父となる中波常吉もその一人である。彼は空襲で家を焼かれ妻子を失い、侘びしい一人暮らしをしていた。そこに母子4人が子連れ結婚という形で転がり込んだのである。

被災者は土地の人、焼け出されたとは言え地域に根を張った人たちである。分かり易く言えば映画「男はついらいよ」に出て来るような地域共同体。お互いに協力し合うことで暮らしが成り立っている商人職人中心の世界である。その人たちの中へ入って行った母としては出来るだけ早く馴染みたいと願っていた。そのような思いで、知合えばすぐに家に連れて来てお喋りをした。それはいいのだが問題はその内容である。

母は聞かれれば喜んで横浜での話をした。単なるおしゃべりだが、それとなく大きなお屋敷が出てきて、沢山の女中さんも何気なく登場する。戦前のことなら海軍士官との交際がが話題に上り、戦後になれば米軍のオフィサーとの話題に変わる。私自身も家の広間で軍服のアメリカ人と着物姿の日本女性がダンスしているのを見た記憶がある。

バラック暮らしだが二人の兄は小学校に行き、養父は日雇いの仕事に行っている。母と私だけが家に居た。6畳一間だから母達のお喋りは全て聞こえる。退屈した私は近所の奥さんに話す母の話を盗むようにして聞いていた。

母の話は奥さんたちにとっては単なるお喋りの一部だが、私の脳にはスポンジに水が染み込むように記憶された。なぜなら、幼い私が横浜辺りで経験したこと、見たことと一致していたからだ。横浜の家は凄く大きかった。門から玄関までが遠かった。広い庭と大きな池があった。廊下は長く運動会のように走っては叱られた。風呂はプールのように大きかった。少なくとも5歳の私にはそう見えた。

食事の世話をしてくれる人、風呂に入れてくれる人、幼稚園の送り迎えしてくれる人、遊びに連れて行ってくれる人。それぞれ違う女中さんが私の面倒をみてくれた。私は坊ちゃんと呼ばれ、母は奥様と言われていた。母は何かと忙しそうだったが、何時も優しい女中さんがそばに居てくれていたので寂しくはなかった。むしろ最高に幸せだった。

「本当にいい暮らしをしていたんだな」と先輩。
「母が話していることは全て私の記憶と一致しているのです」
「俺も信じたよ……。おい、何をふくれっ面してるんだよ」
「東京から来た兄がね。女中なんか居ない。豪邸も無いと言うんですよ」
「何じゃ、それ。せっかく信じてやったのに。何が何だかさっぱり分からん」
「それでは分かるように説明します」
「いいよ。読んでやるからブログに書きな。次は3月4日だったな」

「よくぞ覚えて下さいました。有難うございます」
「土曜日更新と何回も言われて耳にタコだ。欠かさず読んでるぞ」
「この御恩は一生忘れません」
「それ程のことではないけど、今ごろ言われても嬉しくないね」
「なんでですか?」
「まるで夕方のスーパーの安売りだよ」
「分かりませんが」
「アンタ幾つだ。一生とは何年だ」
「76歳です。一生は92年くらいかな。分かりました。賞味期限切れ寸前ですね」
「さあいらっしゃい! "一生の御恩のたたき売り" てなことよ」

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2017年01月21日

複雑な家族関係

「私の家族を紹介します」
「知ってるよ」
と先輩はきっぱりと言った。考えてみれば半世紀にもなる付き合いだ。

「私は中波三郎76歳、妻は花子75歳、そして一人息子は47歳、外で妻と二人暮しです」
「中波って誰だ? 聞いたことないぞ」
「都合により全ての氏名は仮名です」
「仮名じゃあ信憑性ゼロだね」
「私を信じてください」
「俺はいいけどね。アンタを知らない人に信じろと言っても無理だよ」
「大丈夫です。知らない人は読んでくれません」
「読まれない? ネットで流せばアクセスざくざくとか言ってたろぅ」
「それは有名人の場合、無名人のは限りなく無に近いのです」

今から25年前のことだが、息子が学校を出て就職先に提出する為に戸籍謄本をとった。それを見て初めて自分の生まれた場所と父親の名前を知った。伊吹だと思っていた父の姓は斎藤に変わっていた。因みに私は中波だからややっこしい。この機会に自分の生い立ちと家族の氏名を、その変遷を含めて整理することにした。

1940年10月、私は伊吹家の三男として出生したので当初の氏名は伊吹三郎、出生地は横浜市中区だった。0歳から22歳に至るまでは空白の時代。鉛筆1本紙1枚も残っていない。おぼろげな記憶があるだけである。ただし、抱っこされた1枚の写真を持っている。
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母、伊吹スミレと左から伊吹一郎、二郎、三郎(全て仮名)。画像クリックで少し大きくなる。

父の氏名は伊吹金吾、母の名はスミレ、長男は1936年生まれで一郎、次男は1938年生まれで二郎、そして三男の私は1940年生れの5人家族だった。伊吹家は1945年ごろまでは神奈川県内にあった。

1946年ごろ、終戦後の混乱の中で父親が命に関わるトラブルに巻き込まれ、妻子を残して北海道に逃亡し行方不明となった。そして、母は三人の子を連れて東京の表具師、中波常吉と再婚した。彼は米軍の空襲で妻子を失い一人暮らしだった。

行方不明の夫が居ては正式な結婚はできない。夫である伊吹と離婚することが先決だ。その為家族構成は中波が1人で伊吹が母子4人と変則だ。6歳の私は普通の家族と思っていたが、今風に言えば事実婚である。私は19歳まで伊吹三郎として生きて来た。

1947年中波常吉と伊吹スミレとの間に子が生まれ春子と名付けられた。入籍し中波春子となる。母もいつの間にか中波姓になっていた。この時点の家族構成は中波が春子を含む親子3人、連れ子の兄弟3人が何故か伊吹のままになっていた。

実父伊吹金吾は行方不明なのにどうやって離婚をしたのだろうか。母が姿をくらました実父と連絡をとるのは不可能だ。実父が必要に迫られて連絡して来たに違いない。離婚は双方にとって再出発の為に必要だった。この件に関しては母から何も聞いていない。私自身は家族6人と認識し、貧しい両親と幼い妹を助けるのは家族としての義務と思っていた。

19歳のときは東京の家からは遠く離れて働いていた。家計を助けるためである。ある日、母からの手紙と共に書類が郵送されて来た。私を「中波の籍に入れたいので署名して印鑑を押して返送して欲しい」と書いてあった。深く考えずに署名捺印して送り返した。家族が同じ姓になるのは当然と考え何の疑問も抱かなかった。

1959年の秋、母から手紙が来た。家業である経師屋の仕事が忙しくなってきたので家に帰って来いと書いてあった。家で働いて暮らしが成り立つなら、それに越したことはない。虚弱体質の私には肉体労働の仕事が辛かったせいもある。辞めて家に帰ると、兄2人は入籍を拒否して伊吹のままであることを知った。騙されたような気がしたが後の祭りだ。

家の仕事が忙しかったのは12月までで年が明けると仕事はバッタリ来なくなった。このままでは食べて行けないので職を探さなければならない。もう名前のことなどなどはどうでもよくなった。就職するのには父母と同じ姓の方が都合がいいと考え直した。

母は私が貯金をいっぱい持っていると思っていたようだ。衣食住は支給されるが月給は5,000円だ。その内4,000円を約4年にわたり毎月家に送金し続けていたのだから貯金などある筈がない。一方母は月々4,000円も送って来るのだから給料を沢山もらい貯金もいっぱい持っていると思ったらしい。母は私が文無しだと知ると家を出ることに反対はしなかった。20歳になった私は、遅まきながら親孝行ごっこの夢から目を覚ました。

「親孝行ごっこかよ」と先輩。
「そうですね。ままごとの孝行息子役です。何も考えていませんから」
「そう言えば昔は家の犠牲になっても親孝行するのが当たり前と思っていたな」
「話は変わりますが、オフクロの教育に失敗しました」
「母親の教育? なんだそれ?」
「パチンコを止めさせて真面目な母にしたかったのです」
「そうかい」

「また話変わりますが、もしアメリカの大統領になれと言われてら断ろうと思うのです」
「アンタが大統領。冗談とは思うけどバカバカし過ぎて笑えないね」
「万が一でもなれないと言うのですか?」
「俺忙しいんだ。もう止めよう」
「トランプ大統領だってなれないと言われましたね。彼と私はどう違うのですか?」
「沢山あり過ぎて数え切れないよ」
「共通点はその百倍も千倍もありますよ」
「聞いてやるから言ってみな」
「食べてウンコして寝る。テレビ観て音楽聴いて本を読む。目があって、口があって……」
「ちょっと待て、トランプ大統領と同じ人間だと言ってるだけじゃないか」
「いけませんか」

毎週土曜日更新、次回は1月28日更新。
再び幼児に戻り「吹き込まれた記憶」。ご訪問をお待ちしています。
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2017年01月14日

生い立ち2-東京へ

<先輩の人柄を会話を通してそれとなく紹介>
「先輩は航空管制科学をご存知ですか?」
「知らないよ。元々俺たちが紙と鉛筆と電話だけで始めた仕事だ。学問じゃない」
「レーダーもコンピュータも入りましたよ」
「何が入ろうと管制官は職人、一人ひとりの流儀があるんだよ。俺はゼロ戦流だ」
「だから普遍化できないと言うのですか?」
「なんだ? フヘンカって」

「本気にしないのなら"空の旅を科学する"で検索してみてください」

「なるほど、こんな本が出たのか。世の中変わったな」
「劇的に進化する航空管制の世界を描いたそうです」
(先輩は"Air Traffic Management: Eri Itoh"で検索し動画も観てくれた)
「先端技術は凄いな。俺たち、たった半世紀で化石になっちゃったよ」
「化石こそ貴重な歴史的資料です。胸を張りましょう!」


 
<生い立ち2-東京へ>
話しは1946年の春に戻る。私が6歳の時に母は東京に住む知人の紹介で表具師、中波常吉と再婚した。母子4人の引越し先は渋谷区青山7丁目付近の焼け跡に建つバラックだった。辺り一帯はアメリカ軍の空襲で焼野原にされた場所だ。

被災者は焼け跡から焼トタン等の廃材を拾ってきて仮小屋を建てバラックと呼んでいた。焼けトタン作りの家は冬は隙間風で寒く夏はトタンの熱で猛烈に暑い。雨が降ればトタンに当たる雨音がうるさい。ダダダダダダダッと機関銃で撃たれている様な騒音だ。家族5人が寝ると足の踏み場も無い。雨漏りがしても逃げ場がないのだ。

不思議なことに豪邸暮らしの喜びもバラック暮らしの悲しみも覚えていない。幼児の私は飼い猫のように、エサを食べてウンコをして、ほっつき歩いて寝るだけだった。ひたすら母を恐れ、叩かれそうになったら逃げる。ただそれだけの暮らしだった。住めば都とか此処は地獄とか考えたこともない。完璧なその日暮らしだから悩みも無かった。

戦後1年もするとボチボチ家も建って来た。母も家を建てるつもりで金を用意して東京に来たのだ。養父の中波さんは表具師だから戦中、戦後にかけて仕事が全く無い。掛軸、屏風、額等を表装する仕事だから暮らしに余裕がないと成り立たないのだ。おまけに仕事場、道具、材料の全てを空襲で焼き尽くされたのである。

戦時中は風船爆弾を作りに行ったそうだが、その留守中に米軍の空襲で妻子を失った。もしアメリカ本国を攻撃する風船爆弾を作りに行かなかったら妻子と一緒に死んだと思う。養父は毎日、子を抱く先妻の遺影の前で手を合わせていたが、いつの間にか遺影は無くなっていた。不思議に思って兄に聞くと母が捨てたと言っていた。

中波さんがコブ付きの母と再婚したのは金目当かも知れない。焼け出された人々の目標は復興、具体的には家を建てることである。その為に再婚したとしても当時としては当然のこと。空襲で家族は滅茶苦茶に破壊されバラバラにされた。家族の再編成も復興の為には必要だ。誰もがあらゆる手を使って家を建てようとした。例外は無い。

不幸なことに養父は肺病にかかり予想外の長患いとなる。こうして養父の土地に母の金で家を建てる計画はご破算となった。治療費と生活費で全財産を失うのも時間の問題となったのである。夢ははかなく破れ、どん底へとまっしぐらに落ちて行った。

振り返ってみれば実父逃亡が貧乏の始まりで、生活力の無い養父との再婚が貧乏の確定、養父肺病罹患で一直線にどん底へと落ちて行った。ついに泥沼にはまってしまったのである。しかし、贅沢を知っている母はともかく、私にとっては上り坂のスタート地点に過ぎなかった。1946年はブラブラしていた。1947年4月に小学1年生になる。

「我が家の場合は終戦時の年齢で性格が違っているのです」
「そうかい。どんな風に違うんだ」と先輩。
「完全に記憶のある9歳だった長男は坊ちゃん風のところが残っています。一方お金持ちの記憶が全くない三男坊の私は貧乏丸出しです。情けないですよね〜、先輩」
「おいおいそばに寄るなよ」
「なんでですか?」

「貧乏はうつると言うじゃないか」
「大丈夫ですよ。バブル景気で貧乏症はとっくに治りました」
「菌は残ってないのか?」
「きんですか。残ってますよ〜、たくさん残ってますよ〜」
「だから寄るなって言ってるだろう!」
「畑中貴金属の地金が500グラムバーで20本ですよ〜。バブルの遺産で〜す」
「そうかい。これからも仲良くしようぜ」
「有難うございます。それでは次のブログで母と3人の幼児をご覧ください。母に抱っこされているのが私です。セーラー服姿の兄たちも可愛いですよ。1941年の撮影です」

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