2017年05月13日

お知らせ

■ 管理人が出演する放送のご案内
AIR-G FM北海道のスタジオで中島公園について少しだけ話しました。
5月19日10時30分ころに放送されます。よろしくお願い致します。
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お土産に「札幌円山コロン」頂きました。美味しい!

番組は高山秀毅さんと中嶋あゆみさんのRep.ly.ze(リプライズ)、NEWS+スポーツ+北海道がキーワードで、7時30分〜12時55分にわたる充実した番組です。10時30分くらいに私の話もチョッピリ放送されると思います。


5月の更新は休みます
申し訳ありませんが都合により5月中の更新は中止します。年間誌「ぼけっと4号」の原稿執筆に専念したいと思います。何をやってもノロマです。まったくボケっとした話で申し訳ありません。次の更新は6月3日です。よろしくお願い致します。

参考
「ぼけっと1号」2014年10月発刊
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中島公園の歴史について書きました。

「ぼけっと2号」2015年10月発刊
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中島公園菖蒲池の東側に鎮座する「木下成太郎像」について書きました。

「ぼけっと3号」2016年10月発刊
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中島公園で子育てを完遂した11羽の子を持つオシドリママについて書きました。
4号については薄野で生まれて中島公園で育ったマガモ親子について書きたいと思います。
よろしくお願い致します。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa(このブログの管理人でもあります)

毎週土曜更新、都合により5月中は休み、次回更新は6月3日です。
またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢

2017年05月06日

洋楽カラオケは楽しい

「グッモーネン先輩、ハオユ?」
「ご機嫌よくないね。なまってるぞ」
「英語は大好きですが喋れないから歌ってます」
「コッソリ歌うのは勝手だが書くんじゃないぞ」
「喋れなくて歌えなくて書けなかったら、私はどうしたらいいのですか」
「そんなこと知るか」
「好きなことが出来ないのは辛いです。こうなったら先輩だけが頼りです」
「友達いないのか。うっとうしいな。好きなように書きな」
「書いていいのですか。有難うございます。テンクサラーッ

遊びも運動も苦手な私は仕事も苦手だった。それでも何とか工夫して定年まで勤めて上げてハッピーリタイアメント。そして、始めたのがカラオケである。恐るおそるの挑戦だが、歌うなと言う人は居なかった。それどころか健康にいいからと励まされた。1年後には上手くなったね」と言ってくれる人さえ現れたのだ。これでは面白過ぎて止められない。

演歌がダメなら洋楽があるさという気分で、洋楽カラオケを始めて早くも1年半たった。何を歌ってもダメなことは横に置いて、目先の気分を変えて楽しむことにした。そもそも音痴と言うものは、背が高いとか足が短いとかと同じようなもの。私の個性だから直らない。しかし背が高くて足が長ければ速く走れるとは限らない。逆も真ならいいのだが。

スポーツ・ゲームがダメな私は勝ち負けのない趣味としてカラオケを選んだ。もちろん私の手の届かないところでの勝負はあると思う。しかしゲームなら最初から勝ち負けを争わなければならない。私にとっては余りにも厳しすぎる。

「将棋だって自分なりに楽しむことができるだろう」
「そうでしょうか」
「レベルが同じような人と楽しめればいいんだよ。仕事じゃないんだから」
「そうですね」
「何故そうしない」
「碁・将棋・マージャンなど何でもやりました」
「やったのか?」
「だけど勝ったことはないし何時もビリ」
「自分なりに楽しめばいいんだよ」
「不可能です」
「なんで?」

「どうしても聞きたいと言うなら話しましょう。最初はね下手同士で楽しもうよとか言っている人がですよ。強くなると私との対戦を嫌がるようになるのです。誰もが同じです。そんなことを繰り返している内に、相手になってくれる人が誰も居なくなりました。一番下手とはそういうことです。まだ言いたいことの半分も言ってませんが、もっと聞きたいですか」

「分かった分かった。もういい。こんど一緒にカラオケ行こうぜ」
「有難うございます。ウウァンドフォウ! シンギン シンギン」
「素晴らしいと言ってるつもりか。お里が知れるぞ」
「独学ですから」
「学と言うほどでもないだろう」
「一人で楽しんで独楽ですよ。私の勝手でしょ,イズネッ?」

SSNカラオケクラブの洋楽カラオケがスタートして1年半たった。最近参加する方々は凄く上手い。早く入っていて好かった。歌の方は相変わらずだが場慣れしたのが何よりだ。それに音痴は治らないけれど繰り返せば口は動くようになる。ささやかな一歩に過ぎないが、私の心の中では月面着陸の第一歩くらいに増幅される。

テレビで歌が上手いと言われている犬が歌っていた。ただウォーとかアォーとか長々と唸っているだけだ。それでも犬は得意顔だ。私も歌っているつもりだが、そうは聞こえないかも知れない。犬のふり見て我がふり直すべきとは思う。しかし、心とは裏腹に1年半の成果を書きたくなってしまった。我ながら困った人だ。

QK牧場の決闘
好きな西部劇の主題歌を歌ってみたかった。しかし難しかった。楽譜が読めないのでCDでフランキー・レーンが歌っているのを聴いて真似しているつもり。真似できるはずがないのにそうしている。他に歌を覚える手段がないから仕方がない。
<思わず気分が出てしまうフレーズ>
Duty calls. My backs against the wall.
格好いいなぁと思う。歌っていると芝居をしているみたいな気分になる。実際には追いつめられる様な状況には陥りたくない。本音を言えば義務を負いたくないしドキドキもしたくない。のんびり寝ていたい。

16トン
意味は分からないが調子がいいから好きなのだ。アメリカの炭坑節かな? 毎日16トン積み込んで何になる。何年やっても借金がかさむばかりだと歌う。やるせないねぇ。数え切れないほど繰り返し口は動くようになったが、なかなか歌にはならない。難しいものだ。まったくやりきれないよ。
<しびれるフレーズ >
If you see me comin', better step aside.
テネシー・アーニー・フォードはここだけ特に小声で歌っている。何となく凄みを感じる。私を見かけた人たちがサーっと道を開けたとしたら、さぞかし気分がいいことだろう。まるで西部劇のワンシーンのようだ。
A lotta men didn't, a lotta men died.(lottaはlot ofの短縮形)
と続くのだ。凄いなあ。しかし分からない。”知らぬが仏”は英語で”What you don't know never hurts you.”だそうだ。私を傷つけないことだけ分かればそれで充分だ。

悲しき雨音
30年以上前、プランタン・デパートがあった頃の新札幌を歩いている時、ドラムの音で足を止めた。青空の下で演奏されていたのが「悲しき雨音」であることを後で知った。その時は軽快なリズムを刻むその曲が悲しい失恋の歌とは知らなかった。
<可哀そうと思ったフレーズ>
The only girl care about has gone away.
これなら私でも気持ちが分かる。ああ可哀想。
Looking for a brand-new start.
新しい人生を求めてか、いい気なもんだね。人の気も知らないで。男はつらいよ。

「その他に、どうにか口が回って歌えるものが30曲になりました」
「ホントか?」
「凄いでしょう」
「反応は?」
「笑ってくれますよ」
「ユーモアで笑いを誘う歌もいいもんだ」
「真剣に生真面目に歌ってますよ」
「なんだそれ?」
「テレビの犬だって真剣に歌っていました。決して笑ったりしません」
「感動したか?」
「ぜんぜん」
「なにも犬まで持ち出して言い訳することないだろう」
「と申しますと?」
「要するにアンタはドキドキしないで傷つかなけりゃ好いんだろう」
「そうですが、それで?」
「家で寝てればいいじゃないか」
「ダメです。筋肉が萎縮して寝たきりになり来年のサクラも見れなくなります」

中島公園のサクラ
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シダレザクラ

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エゾヤマザクラ

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ソメイヨシノ

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チシマザクラ

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ヤヱザクラ
タグ:札幌
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2017年04月29日

ゴミで財産を築いた人

8歳の頃だったと思う、午後3時ごろ学校から帰ると養父の常吉さんが頭と顔全体に包帯をグルグル巻きにして寝ていた。心配で胸がドキドキした。父とは呼べなかったが父と思っている人がミイラのような姿で横たわっていた。恐怖で歯がガチガチ鳴った。

子供たち三人は寡黙で良く働く常吉さんに敬意を抱き頼りにもしていた。もし母が「お父さんと呼びなさい」と言えば、喜んでそうしたと思う。5歳と7歳と9歳の子供にとっては居なくなった実父が父であり養父を何と呼んでいいか分からない。常吉さんが法的に養父になったのは同居してから14年目、私が19歳のの時だ。二人の兄は養子にもならず旧姓のままだった。それなのに私は、後に生まれた7つ違いの妹を含め6人家族と思っていた。

常吉さんの本職は表具師だが仕事がないので品川の旧国鉄品川駅操車場で掃除夫をしていた。日当は安いけれどゴミの中にはお宝が眠っているのだ。その一つが資源ゴミ、中でも一番人気はアカと呼ばれる銅である。常吉さんは銅を得るために電線を燃やしている時に突然噴き出した炎で顔を焼かれたのだ。

親方は仕事ではないのだから治療費を出せないとか言っていた。しかし掃除夫にしてみれば、このような余禄があるから安い日当で働いているのだ。余禄はもう一つあった。汽車弁の食べ残しである。品川には全国の至る所から客車が入って来る。列車を掃除するのが常吉さんたちの仕事だ。食糧難の当時は食えるものをゴミとは思えない。

世の中はいろいろ、片方に食うや食わずの人がいるかと思うと、もう一方には駅弁を残す人がいる。今も昔も格差社会だ。お蔭で北海道から九州までの弁当を食べたが、今覚えているのは名古屋の鯛めしくらいだ。食える食べ残し弁当が出る範囲は案外狭いのかも知れない。ともかく広範囲の味覚が家に居ながら食えるのだから有難い。

しかし、衛生的には危ない。ここでも目、鼻、舌による厳重なチェックが必要だ。そして蒸かしてから食べる。温かいご飯は美味しいし、熱でバイキンを殺せるので衛生的だ。私たちは文明人だから綺麗なものしか食えない。穢ければ綺麗にする。キレイに出来なければ捨てる。金が無くて医者にも掛かれないのだから腹は壊せないのだ。

品川駅操車場から運ぶのは常吉さん、目鼻舌チェック母、蒸かすのは子供たちの仕事だ。バラックには台所みたいな場所は有っても水道はないし火を使うスペースもない。母は見栄っ張りだから他人様の残り物を蒸かす姿を見られたくない。外と言っても街中である。道路の脇だから人通りもあるし、近所の人が挨拶したりする。

当時の弁当箱は経木で出来ているので燃料になる。包み紙も割り箸も経木も面白いようによく燃えた。水道も焼跡にニョロっと水道栓だけ出ているのを共同で使っていたので無料だったと思う。母は金が無い金が無いといつも言っているのに、水道料が大変だという話は聞いたことがない。

燃料費も水道料も弁当代もかからない。金が無くても案外暮らせるものだ。しかし、バラック暮らしで拾い食いでは格好がつかない。だから秘密にして普通の暮らしをしているフリをしなければならない。これが一番大変だった。世の中には楽しい秘密もあるけれど、こんな秘密は疲れる。いつもバレルのではないかと心配している。そしてバレたら大恥だと思っている。貧乏は決して呑気ではない。ストレスいっぱいの暮らしだ。

ところが、近所には拾って売って大儲けして、3年たったら大田区に大きな土地を買い、池に鯉が泳ぐ庭を造り豪邸を建てた人がいる。清掃員として常吉さんたちを雇った親方だ。シベリア帰りの請負師である。彼は国鉄から清掃の仕事を安値で請け負った。監督に賄賂を使いゴミを持ち帰ることを見逃してもらっていた。

一番いいゴミは進駐軍専用車にある。なんと当時極めて貴重だった肉の半端物がゴミとして放置されているのだ。アメリカタバコ、菓子類等いろいろなものをゴミとして放置、あるいは捨てられていた。一般掃除夫がそこに入ることはない。進駐軍専用車の清掃は親方夫婦とその子供たちだけでやっていた。親方にとっては日米の生活水準の差がそのまま儲けになるのだ。格差は大きければ大きいほど儲けが多くなる。

肉もアメリカ煙草も高く売れる。それに親方はアメリカ産のみならず大量の国産煙草吸殻を持って帰るのだ。もちろん空き箱も持ち帰る。吸殻をぼぐして巻いてタバコにして、拾ったピースなどタバコの空き箱に詰めて売る。私も子供なのに吸殻をほぐすのを手伝わされた。日当は放置されたパンや食料だから人件費もかからない。もちろん所得税なんか払わないから丸儲けだ。本当にいい商売をしていたものだ。

この仕事を続ける為には監督への賄賂だけではダメだ。ある意味で人格者でなくてはならない。度胸一筋で思い切ったことをやるけれど、義理人情に厚くなければ続かない。人には嫌われないで頼りにされなくてはもたないのだ。多くの人達が真似をしようとして失敗した。成功するのは難しい。天国と地獄とが背中合わせの仕事だ。

おかげで私はエライとばっちりを受けた。ある日友達に「お前タバコを吸ってるだろう」と言われた。むきになって否定した。それから3日したら、どこでバレたか「お前闇タバコ売るの手伝っているだろ。法律違反だぞ」と脅かされた。私は法律も社会常識も知らない子供だから、警察に捕まって牢屋に入れられると思って凄い不安に襲われた。家族皆が協力しなければ食って行けないのだから抜けられないのだ。

それなのに親方は堂々としている。「大蔵省は儲けすぎだ。だから俺が安く売って上げているんだ。人助けなんだ」とか言っていた。3年して家を建てたときは、家に呼んでくれたので行ってみた。応接間に、表彰状がいっぱい飾ってあった。教育に貢献したとか、街の安全に貢献したとかで学校や警察から表彰されたのである。
タグ:渋谷
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2017年04月22日

子供はつらいよ


魚屋の真ちゃんがリヤカーを引いて坂を上って来た。町内の人だから知り合いである。魚屋のオヤジは凄く怖い人だ。中学生の真ちゃんは学校から帰ると売れ残った魚を売りに行かされる。渋谷は坂が多いので一人で坂を上るのが辛そうだから押して上げた。

「押してくれても何も上げないよ」
「分かってるよ。オヤジが怖いんだろう」
私は小学生なのに生意気な口を利く。真ちゃんはオヤジに虐げられて気が弱くなっているのだ。悪いけれど年上と言う感じはしない。ようやく坂を上りきる。

「サンキュー、だけど商売ものは上げられないんだよ」
「分かってますって。心配無用」
分かっているのは真ちゃんの腹の内だ。そのまま食える加工品でも上げたいのはやまやまだが、オヤジに知られるのが怖くて上げられない。根が優しい真ちゃんは迷っている。

こっちは腹ペコだから、くれるまで待とうとホトトギスの心境だ。私の気持ちは変わらないのに真ちゃんの心は揺れている。最後の勝利はこちらのものだ。

売れ残りの魚を売るのは楽じゃない。なかにはイチャモンを付ける人もいる。眼鏡をかけた青白い男が「こんな活きの悪いの食えたもんじゃない。エゴかったぞ。金を返えせ」と言って腐りかけた昨日の魚を持って来た。

真ちゃんは黙ってうつむいている。金なんか返したら大変だ。オヤジにこっ酷く怒られる。魚屋のオッサンは凄く怖いのだ。真ちゃんがシクシク泣き出した。いよいよ私の出番だ。

「オジサンの家はそこだよな」と指を差す。
「それがどうした」
「魚松のオッサンは怖いよ。息子から金取ったと聞いたら怒鳴り込んで来るぞ」

オジサンは魚を持ってスゴスゴ帰った。私は嘘を言ったのではない。魚松の家ではオヤジが威張り散らし、奥さんは唯唯諾諾と従うだけ。4人の子供は奴隷の様に使われていた。そうでもしなければ空襲で全てを失ったのに、1年で魚屋を再建することは出来ない。

真ちゃんは泣きながらリヤカーの中を物色している。ようやく決心したのか、さつま揚げとハンペンを持って来た。私はさつま揚げの臭いをかいだが異臭が無かったので、少しだけかじってみた。大丈夫だ悪くなっていない。こうして今日も栄養満点の食い物に有り付いた。明日も何とかなるだろう。

「売れ残りでも新鮮な魚もあるけれど、加工品は危ないので注意が必要です」
「今でいうところの日切れ食品だな」と先輩はしたり顔で言う。
「たとえ隣人でももらい物は要注意です」
「明日でも食えるものを今日他人に上げたりはしない」
「もらう者の自己責任で食べるのです」
「テレビドラマの腹ペコな人はもらった途端にかじりつくけどな」
「目と鼻と舌でチェックするのが基本です」
「応用編もあるのか?」
「基本チェックで合格したものを蒸かして、熱でバイキンを殺します」
「かなり念入りだな」
「子供の時から健康第一、歌って暮らせばラッキーカムカム。お金もかかりませんよ」

日本が戦争に敗れた1945年は混乱の時代、戦争が終わっても数年は混沌としていた。米軍の空襲で区内77%を焼失した渋谷区は特に酷かった。大人も大変だったと思うが子供も苦労した。苦労を子供に押し付ける親も少なくない。苦労は水の流れのように上から下へとなだらかに降りてくる。

混乱の時代では全ての親が子供の面倒を見るわけではない。人生いろいろ親もいろいろ。温かい親、冷たい親、自分ばかり可愛がる親、無気力な親、怒るだけの親、例を挙げれば切りがない。乱世では子供でも強くなければ生きて行けない。弱い私は頭を使った。生きる知恵は困れば自然にわいて来る。
タグ:渋谷
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2017年04月15日

古き渋谷に似た山鼻

中島公園近くのマンションに転居して約16年たった。1ヵ所に定住した期間としては、76年にわたる人生で最長である。だから第二の故郷のように思っている。では本当の故郷は何処かと言えば、それがなかなか難しい。

生れたのは横浜市内だが3歳までだから全く記憶がない。4歳から5歳にかけて栃木県内と福島県内へと2回の疎開。そして神奈川県の大船で終戦を迎えた。この辺りは断片的な記憶しかない。更に大船の違う場所に移住し、6歳のとき東京に移住した。この頃から記憶がハッキリし始めている。それで渋谷区金王町を故郷のように感じている。そこには6歳から約10年間住んでいた。他に故郷と思う場所はない。

なお渋谷には15歳から23歳までの間は出たり入ったりしながら3年くらい暮らしていた。計13年くらい渋谷に居たことになる。そして東京オリンピックが開催された1964年にやっと定職を得ることが出来た。職を転々とすることがどんなに不安定で辛いかは充分承知していたので、苦手な仕事だが定年まで勤め上げた。それからは自由な人生を心から楽しんだ。

ところで、中島公園の南西部に山鼻と呼ばれる地域がある。そこは道路の向きが微妙に違うのだ。磁方位、真方位との違い等諸説あるが別々の基準で道路が造られたことは確かだ。東本願前停留所から山鼻9条方面を見ると線路が曲がっている。
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画像は市電「東本願寺前」停留所。旧山鼻地域の碁盤の目と旧札幌地域の碁盤の目は方位がずれている。この二つを繋ごうとすれば曲線になる。言い換えれば曲がった場所が旧札幌と旧山鼻との境界線である。線路の曲がりが札幌の歴史を語っている。

話は横道にそれたが私が書きたかったのは16年前に中島公園近くに転居してビックリしたことだ。それは私が故郷と思っている終戦後の渋谷と余りにもよく似ていたことである。遠い昔に思いを馳せてアチコチ散歩した。とても懐かしい。

改めて転居して好かったと思った。感激のあまり此処を故郷と定め挨拶代わりに地域貢献をしようと思ったがなかなか上手く行かない。いろいろ手を付けては引っ込めた。その中で何とか続いているのが中島公園に関するウェブサイト「中島パフェ」である。
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山鼻から札幌市を見ると街のつくりが渋谷に似ていると思う。都心からの位置関係だが大通中心街から薄野、山鼻へと続いている。これは渋谷駅周辺の繁華街から花街といわれた円山町、それに隣接する松濤の高級住宅地との関係に似ている。ともに都心から歓楽街を抜けると住宅地になっている。

故郷を感じさせるもう一つは住処と路面電車停留所の位置関係である。両方とも徒歩2分の位置に停留所がある。子供の頃は毎朝ガタンゴトンチンチンという都電(路面電車)の音で目を覚ました。「青山車庫前」に停車して発車する都電の音である。隙間風の入るバラックには音も遠慮なく入って来た。今も市電「行啓通」停留所の近くに住んでいるが二重窓でコンクリート造りの共同住宅だから電車通りの音は聞こえない。

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故郷と山鼻はよく似ている。停留所のすぐそばに”ほねつぎ”をする「整骨院」があるところまでそっくりなのだ。60年もたってから、また同じ様な場所に住むとは夢にも思わなかった。路面電車のある風景が似ているのかも知れない。子供の頃は線路に釘を置いて電車に轢かせ平たい釘を「製作」する遊びが流行っていた。今だったら大騒ぎになるだろう。

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砂利道が細くなったり行きどまったりする。札幌には今でもこんな道があるのかとビックリした。そして懐かしく感じた。60年前にタイムスリップしたような思いだ。正面のビルを除けば子供の頃渋谷で見ていた風景にそっくりだ。

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同じ道を反対側から見るとこんな感じ。右側の暗い家に懐かしさを感じた。つくりは頑丈そうだが子供の頃住んでいたバラックと似ている。前を見ても後ろを向いても道は細くなったり太くなったり曲がったりしている。この点は終戦後に私が住んでいた渋谷区金王町と似ている。そこは何年か過ぎて区画整理事業が実施され道路は真っ直ぐになった。現在の山鼻の姿は懐かしいけれど不思議だ。区画整理が出来ないのだろうか。

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これは山鼻で見た火事による焼跡だが、焼け残るものは戦災の時に似ている。戦災被害者の最初の仕事は焼トタン等焼跡の廃材を利用してバラックと呼ばれた仮小屋を建てることだった。山鼻界隈に転居して多くの懐かしい風景を見ることが出来た。私は焼跡や不規則な砂利道、あばら家を見ると心が反応する。子供のときに心に刻まれたものが大人になって記憶としてよみがえるのだろうか。これが私の原風景かも知れない。

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見事に傾いている小屋も私にとっては懐かしい。子供のときは見慣れたものだが、今では滅多に見られない。これが市電の停留所から見えるなんて感動的だ。

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札幌まつりの日、行啓通では地元の祭りが行われた。ちょっと寂れたような街の感じが懐かしい。皆が協力してつくる手作り感のある祭りを見て遠い昔を思い出した。終戦後しばらくして職人・商人が協力して戦災で焼失した御神輿を新たに作り祭りを再開した。

御神輿は建具屋や大工が中心になって作ったが、ブリキ屋やペンキ屋も参加した。我家は経師屋だから出番が無いと思っていたら、御神輿に障子を付けてくれた。町内会が全員参加に拘ったのだ。軍国主義を反省し、誰もが民主主義とか男女同権を口にする良き時代だった。町内会も「明朗会」と言う名称だったと記憶している。
タグ:札幌 渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 高齢時代